本屋さんで何気なく目に入った吉村 昭の「赤い人」
数年前、前月形町長の桜庭 誠二氏とお会いする機会があり、雑談の中で樺戸監獄の話になりこの本を紹介して頂いたのが頭の名に残ってました。あっこれか~と思い購入しました。
この本は、樺戸集治監の歴史をたどりながら北海道開拓裏面史で赤い獄衣(囚人服)の男たちが石狩川上流(樺戸)へ押送された。北海道の原野を開墾するという国策に沿って極寒の中、足袋も手袋も支給されず足は鎖で繋がれ食料もままならず重労働を課せられる。死者が続々と出てくる中、囚人たちと看守の敵意の中でのドラマを描いた歴史小説です。この樺戸囚治監初代天獄(監獄長)が月形 潔 のちの月形町名の由来の人物だそうです。一気に読んでしまいました。
私は建設(土木)業に携わってる人間ですから、特に関心があった事として、北海道を開拓するうえで最初に道路整備が行われます。のちに囚人道路と言われる札幌→旭川→北見→網走を結ぶ道路を国策で整備します。1887年(明治20年)~1891年(明治24年)の4年間で約、1,201㎞新設しますが、樺戸集治監・空知集治監・網走監獄の囚人たちの過酷極まりない重労働で663㎞、55%を施工したと言われています。樺戸集治監の囚人たちは200人4組体制で突貫で行ったと記述にあります。
道道月形峰延線(樺戸道路)も樺戸集治監の囚人の手によって作られました。道路幅員5.5m、延長約14㎞と言われています。
当時、あの一帯は沼地であり空知特有の泥炭地、軟弱地盤であります。測量は船に乗って行い、九尺(2.1m)の測量竿が片手ですっぽり差し込めるほどの地盤だったそうです。そのような所に砂利、石等を敷いてもただ沈んでいくだけの状態、まさに糠に釘状態です。そこで考えたのが新設道路脇に排水溝を掘り排水性を高めその排水溝を運河代わりにし原生林の木を伐採し丸太を作り船で丸太を運搬し道路(路床部)に並べ、石狩川から土砂,砂利等を船で運び作って行ったそうです。現在で言うとEPS(発泡スチロール)工法,荷重軽減、土圧低減の工法の先駆だと思います。この道路整備を突貫で行い、夏は暑さ、やぶ蚊、夜は野生動物に怯え、冬期間はこの極寒地で防寒対策などなく鎖で繋がれ動きを制約されながらすべて人力での施工、考えると想像を絶する工事だったと思います。樺戸集治監が終わる迄の間で死亡した囚人の方は1,046人だそうです。今、こうして何気なく通っている道路この中で様々な歴史と背景があり見逃せない事実があるんだと考えさせられました。
昨日店社の安全パトロールで月形峰延線、国道12号線を通り、思い出したので今回投稿してみました。興味がありましたら「月形樺戸博物館」に足をはこんでみてください。胸がいっぱいになりますよ。